みやこ町デジタルミュージアム

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  • 2021/05/26

    日経新聞小説 伊集院静「ミチクサ先生」所縁の話題と資料(5)

    日本経済新聞に連載中の小説 伊集院静氏作「ミチクサ先生」ゆかりの館蔵資料とエピソードを紹介するこのページ。
    5つ目は「漱石自筆の帝国大学解嘱願(草稿)」です。


     漱石は明治40(1907)年3月15日、池辺三山直々の説得を受け入れ、朝日新聞へ入社して専属作家となることを決意しました。これに伴い漱石は、身辺整理のため勤務先の東京帝大へ辞表(解嘱願)を提出します。その際の現物とみられるもの(実際は草稿で、本物は別に清書のうえ提出された模様)がこれですが、型通りの文言からなる文章に手を入れているところが注目されます。
     修正前の文言が残っているので見てみると、どうも「辞めたいから手続してくれ」という趣旨の文言だったものを「免職をお命じ下さい」というへりくだった表現へ修正しています。これは提出先からクレームがついたか、漱石が「この文言は国費留学した身としてはマズイかも…」と「忖度」したのかもしれず、捺印もしていながら結局は提出を見合わせ、手元に残ることとなった「幻の願書」となっています。
     この推測が当たっているとすると、わが国を代表する文豪も、形式や体裁に縛られるお役所言葉(実際には書類ですが…)にはてこずった証として、文豪の誕生だけでない意味を持つユニークな資料と見ることもできそうです[小宮豊隆資料から]。

  • 2021/05/25

    日経新聞小説 伊集院静「ミチクサ先生」所縁の話題と資料(4)

    日本経済新聞に連載中の小説 伊集院静氏作「ミチクサ先生」ゆかりの館蔵資料とエピソードを紹介するこのページ。
    4つ目は「夏目漱石の朝日新聞入社条件交渉メモ」です。


     明治40(1907)年4月、夏目漱石は東京帝大講師の職を擲ち、朝日新聞所属のプロ作家としてデビューします。創作への意欲は、権威と安定の象徴である大学教員の職を擲つに値するとした漱石の決意たるや並々ならぬものがあったといえるでしょう。
     その裏付けの一つとなるのがこのメモで、この時の漱石は入社条件を極めて慎重に瀬踏みしています。これに誠意とユーモアで応えたのが当時の朝日新聞主筆・池辺三山で、漱石を破格の待遇で迎えることを約し(実際に最後まで漱石を庇護した)、漱石のプロ作家デビューが確定したのです。
     このメモは、三度行われた入社交渉2回目のもので、直接対話に当たった白仁三郎(坂元雪鳥)が、箇条書きに整理された漱石の要求に池辺が応えたものを持参した際の控えと見られ、交渉が最も緊迫した明治40年3月7日のものと見られます[小宮豊隆資料から]。

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