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2021/05/27
日経新聞小説 伊集院静「ミチクサ先生」所縁の話題と資料(6)
日本経済新聞に連載中の小説 伊集院静氏作「ミチクサ先生」ゆかりの館蔵資料とエピソードを紹介するこのページ。
6つ目は「池辺三山発漱石宛書簡(明治40年3月17日)」です。
漱石のプロ作家デビューを決定づけた池辺三山(本名:吉太郎)は明治40(1907)年3月15日、坂本雪鳥の地均しを経、満を持して夏目家を訪問、直談判によって見事漱石の口説き落しに成功します。口説かれた方の漱石は池辺のことを、事情を知らないままに「西郷隆盛の如き人」と評し、その人物の快闊さに安心して朝日新聞入社を決意したと後に語っています。
ところが三山は「肥後の西郷」と呼ばれた池辺吉十郎(西南戦争で熊本隊を率いて西郷軍に参加、乱後刑死)の息子であり、漱石の見立ては当たっているどころではなく、人物評の鋭いことで知られた漱石らしい逸話といえます。
なお、ここに紹介する書簡は入社決意後の翌々17日、三山から「お祝いに有楽町の『日本倶楽部』で晩餐でもいかが…」と記した漱石あての招待状で、内容は何気ないものではあるものの、その書体は豪放磊落といってよい強烈な個性が顕れており、これもまた文豪の誕生をめぐる貴重な記録といえそうです[小宮豊隆資料から]。 -
2021/05/26
日経新聞小説 伊集院静「ミチクサ先生」所縁の話題と資料(5)
日本経済新聞に連載中の小説 伊集院静氏作「ミチクサ先生」ゆかりの館蔵資料とエピソードを紹介するこのページ。
5つ目は「漱石自筆の帝国大学解嘱願(草稿)」です。漱石は明治40(1907)年3月15日、池辺三山直々の説得を受け入れ、朝日新聞へ入社して専属作家となることを決意しました。これに伴い漱石は、身辺整理のため勤務先の東京帝大へ辞表(解嘱願)を提出します。その際の現物とみられるもの(実際は草稿で、本物は別に清書のうえ提出された模様)がこれですが、型通りの文言からなる文章に手を入れているところが注目されます。
修正前の文言が残っているので見てみると、どうも「辞めたいから手続してくれ」という趣旨の文言だったものを「免職をお命じ下さい」というへりくだった表現へ修正しています。これは提出先からクレームがついたか、漱石が「この文言は国費留学した身としてはマズイかも…」と「忖度」したのかもしれず、捺印もしていながら結局は提出を見合わせ、手元に残ることとなった「幻の願書」となっています。
この推測が当たっているとすると、わが国を代表する文豪も、形式や体裁に縛られるお役所言葉(実際には書類ですが…)にはてこずった証として、文豪の誕生だけでない意味を持つユニークな資料と見ることもできそうです[小宮豊隆資料から]。
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