みやこ町デジタルミュージアム

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  • 2021/05/25

    日経新聞小説 伊集院静「ミチクサ先生」所縁の話題と資料(4)

    日本経済新聞に連載中の小説 伊集院静氏作「ミチクサ先生」ゆかりの館蔵資料とエピソードを紹介するこのページ。
    4つ目は「夏目漱石の朝日新聞入社条件交渉メモ」です。


     明治40(1907)年4月、夏目漱石は東京帝大講師の職を擲ち、朝日新聞所属のプロ作家としてデビューします。創作への意欲は、権威と安定の象徴である大学教員の職を擲つに値するとした漱石の決意たるや並々ならぬものがあったといえるでしょう。
     その裏付けの一つとなるのがこのメモで、この時の漱石は入社条件を極めて慎重に瀬踏みしています。これに誠意とユーモアで応えたのが当時の朝日新聞主筆・池辺三山で、漱石を破格の待遇で迎えることを約し(実際に最後まで漱石を庇護した)、漱石のプロ作家デビューが確定したのです。
     このメモは、三度行われた入社交渉2回目のもので、直接対話に当たった白仁三郎(坂元雪鳥)が、箇条書きに整理された漱石の要求に池辺が応えたものを持参した際の控えと見られ、交渉が最も緊迫した明治40年3月7日のものと見られます[小宮豊隆資料から]。

  • 2021/05/21

    日経新聞小説 伊集院静「ミチクサ先生」所縁の話題と資料(3)

    先日来、日本経済新聞に連載中の小説 伊集院静氏作「ミチクサ先生」ゆかりの館蔵資料とエピソードを紹介していますが、3つ目のゆかりの品は、夏目漱石著「木屑録(ぼくせつろく)」です。

     

     5月20日の稿に、漱石の友人にして近代俳句の父・正岡子規のことが紹介されていますが、子規と漱石は一高(東大の前身校)の同窓で、落語を介して意気投合。深い交友を結ぶうち明治22(1889)年の5月から9月にかけ、互いの創作を交換しました。まず子規が七種の文体からなる『七草集』を著したのに対し、漱石は夏休みの房総旅行を漢詩で綴った紀行文『木屑録(ぼくせつろく)』を著して子規へ献呈。批評好きの子規はこれに評論や添削を加えて返却、評の中で漱石を「千万年に一人の逸材」とほめちぎり互いの文才を認め合いました

     実物の木屑録は、二つ折りの半紙を綴っただけの何の変哲もない墨蹟のつづり(のちに漱石門下・小宮豊隆が折本表装した)ですが、二人の天才が誌上でエール交換したという、近代日本文学史上記念すべき作品とされています。
     なお、最近判明したユニークなご縁話として、木屑録に登場する漱石に同行した旅行者に、みやこ町出身者のいたことが判明しました。その人物は川関治恕といい、旧豊津藩士子弟で慶応義塾に在籍、何かの縁で漱石と房総旅行をすることになったようです。しかし作中で漱石が述べているように、川関たちの旅は放蕩三昧で風流韻事を解するものは皆無。漱石は鼻白む思いだったようで、その後深い友情を結ぶには至らなかったようです。

     しかし川関は漱石のために、貴重な証言を残しました。旅行先の鋸山(千葉県鋸南町)は東京周辺では奇岩怪峯の絶景として知られるものの「なぁに、俺の里の豊前耶馬渓の方がスケールはでかい(羅漢様の数は負けるがね)」と述べたことから、後年漱石が熊本へ赴任の際、休暇中に耶馬渓旅行をしたのはこのことが発端だった可能性があるのです(以上は千葉県在住の漱石研究者・上杉伸夫氏からの情報を参考にさせて頂きました。この場を借りてお礼申上げます)。

     このように日本近代文学のフロンティアとなった二人の共著ともいえる作品の創作に、みやこ町出身者が関わっていたという事実に不思議なご縁を感じます。

     ちなみに「木屑録」は当館小宮豊隆記念展示室のメイン資料です。館へお越しの際はお見逃しなく…。

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