伝説によると、豊前国分寺は戦国時代の天正年間(1573~1592)、豊後の大友宗麟によって焼かれたといいます。ただ、この時全てが灰になったのではなく、いくつの建造物や寺物は焼失を免れましたが、その中の一つに「胎蔵界曼荼羅図」があったといいます。
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胎蔵界曼荼羅図アップ①
胎蔵界曼荼羅図(部分)
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胎蔵界曼荼羅図アップ②
胎蔵界曼荼羅図(部分)
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胎蔵界曼荼羅図アップ③
胎蔵界曼荼羅図(部分)
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胎蔵界曼荼羅図アップ④
胎蔵界曼荼羅図(部分)
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胎蔵界曼荼羅図アップ⑤
胎蔵界曼荼羅図(部分)
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胎蔵界曼荼羅図アップ⑥
胎蔵界曼荼羅図(部分)
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調査風景
東京国立文化財研究所・朽津先生による調査風景(2007)
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木箱
この木箱は、寛永20年(1634)、小倉藩主小笠原忠政(のちに忠真)が、胎蔵界曼荼羅図を含む豊前国分寺所蔵の仏画を修復した際に寄進したものです。
- 特にありません。
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