豊前地方北部における代表的かつ大規模なな中世城館遺跡として知られています。伝説では六親王・源経基が豊前鎮護の拠点として作らせたとか源平合戦の梟雄・緒方惟義の攻城伝説などがありますが、南北朝期までの動向は確たる史料による確認ができません。
室町期に入り大内・大友氏両氏による争奪戦をはじめ数多の武将たちによる争奪戦が繰広げられましたが、その最後を飾ったのが豊臣秀吉です。九州征伐の途上当城に立ち寄り、当時九州一と言われた堅城・岩石城攻めの拠点としました。岩石城は一日で落ち、秀吉の目論見は成功、九州諸将をふるえ上がらせその後の平定戦は難なく進んだとされています。秀吉はその後の支配を配下の黒田官兵衛孝高に命じます。官兵衛は子息長政に預けて国人一揆平定の拠点とし、一揆平定後は中津(大分県)へと移ります。その後も豊前統治の要城とされましたが、元和の一国一城令で廃城となり、数百年の長きにわたり続いた豊前屈指の名城の歴史も幕を閉じました。
馬ヶ岳城跡(犀川地区から望む):
馬ヶ岳城跡(二の丸とされる東山を臨む/犀川花熊から):
二の丸跡からの眺望(犀川盆地・英彦山方向):
二の丸跡からの眺望(京都平野・西瀬戸方向):
二の丸跡からの眺望(稗田・勝山方向):
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