山中にはみやこ町ゆかりの文学者たちの石碑がいくつも建立されています。代表的なものにプロレタリア文学作家の葉山嘉樹、『コシャマイン記』で芥川賞を受賞した鶴田知也のものがあります。いずれもゆかりの人々や団体によって整備されたものですが、みやこ町は文学の里でもあるのです。
山中にはみやこ町ゆかりの文学者たちの石碑がいくつも建立されています。代表的なものに社会主義思想の父と称された堺利彦・プロレタリア文学作家の葉山嘉樹、『コシャマイン記』で芥川賞を受賞した鶴田知也のものがあります。いずれもゆかりの人々や団体によって整備されたものですが、みやこ町は文学の里でもあるのです。
堺利彦顕彰碑(近景):
明治3(1870)年仲津郡大坂村松坂に生まれその後、豊津へ移住、豊津中学校(現育徳館中学・高校)を卒業。明治41(1908)年「赤旗事件」により2年の禁固刑を受け、獄中作の望郷歌は故郷への思いがあふれています。
出所後の大正3(1914)年には「ヘチマの花」を出版。社会主義へと進み、数多くの翻訳を通じロシア革命の動向や西洋文学の紹介にも努めました。
3人の偉業を顕彰する文学碑:
堺利彦は昭和6(1931)年、「堺利彦農民労働学校」を開設して社会主義や農民運動史を教え、のちに豊津に校舎を建てました。堺没後も学校は続きその教え子たちは活動家へと成長、彼らは昭和31(1956)年堺利彦顕彰会を結成しました。その後「堺・葉山・鶴田の3人の偉業を顕彰する会」に発展、平成30(2018)年3月に堺の碑がこの地へ移転したことにより、三人の碑が揃って八景山から故郷を見つめる現在の形になりました。
葉山嘉樹文学碑(葉山肖像/レリーフ):
昭和52(1977)年10月、葉山嘉樹32回忌の命日に菊枝夫人や鶴田智也などが見守る中、建立・除幕されました。節丸山産の御影石に葉山自身の筆跡で「馬鹿にされるが真実を語るものがもっと多くなればいい」と刻まれていますが、これは葉山が生前好んで書いた言葉です。
中央に佐藤忠雄作のブロンズ製レリーフが入り、文学碑の両端には代表作「セメント樽の中の手紙」にちなんだセメント樽のモニュメント2個が置かれています。
葉山嘉樹文学碑(葉山文「わが郷土を語る」から):
私の幼少の時代は「甲塚」という地で育ちました。そこには畑の中に多くの古墳があり、秋になると櫨の木が紅葉して甲塚を飾ります。
今川の流れやそれに沿って走る鉄道、幻想的な形に横たわる竜ヶ鼻の山に見とれます。(葉山嘉樹「真実を語る」より)
鶴田知也文学碑(碑近影):
鶴田知也は葉山嘉樹の文学碑や堺利彦顕彰碑建立に奔走しましたが、自身の文学碑建立は固辞し続けていました。昭和60(1985)年、当時の豊津町長が鶴田知也の文学碑建立を決意、平成3(1991)年に鶴田知也顕彰事業推進委員会が発足し、翌年、遺族や関係者の手により除幕式が行われました。
鶴田知也文学碑(鶴田文「栴檀」から):
文学碑は葉山嘉樹と向かい合うように建てられ、碑には「不遜なれば未来のごとくを失う」と刻まれています。脇の碑には画文集「草木図誌」より豊津の思い出を語った「栴壇」の一部が引用されています。
晩年は農業の専門家・指導者の立場でしたが、その傍らで豊津を思い「わが故郷は豊津」「故郷豊津の風土」等の著作を残しています。
八景山の三人句碑(正女・朴童・緑音):
護国神社の石段を下ってゆくと、戦前に社会運動の若き担い手として活躍した正女・朴童・緑音の句碑(通称「三人句碑」)があります。
正女(宮本正子)は京都高等女学校卒業後上京し俳人として活躍を目指した矢先、帰郷を強いられた上の意に沿わない結婚のため24歳で自ら命を絶ちました。
朴童(井上精)は正女とは同い年で近所に住み、句作をともにする間柄で、その句が俳句誌「ホトトギス」にも紹介されました。正子の死後は満洲に渡り、35歳で戦死しています。
緑音(森毅)は二人共通の友人で堺利彦に師事、戦前・戦後を通して社会主義運動に奔走しました。
八景山の三人句碑(拡大):
護国神社の旧参道にある屏風のような花崗岩の巨岩には、まるで寄せ書きでもするように先に紹介した三人の句が刻まれています。それぞれ「牡丹に嫁ぐときめし薄化粧」正女 「河鹿笛吹きゝ岩を変へにけり」朴童 「豆の花離農の蒲団巻きむしる」緑音 とあり、伴に青春を過ごした三人が句碑の中で歓談しているようにも見えます。
この句碑は戦前期に社会運動の若き担い手として活躍した三人(うち2人は若くして非命に幣れる)を偲び、昭和34(1959)年に友人らによって造られたものです。
Copyrigt (C) Miyako-Town Digital Museum. All Rights Reserved.